私が活動している清水山の麓は、舞谷の人々からは「麻畑」と呼ばれています。
明治・大正時代は養蚕業が盛んで、「麻畑」は桑畑として産業を支えていました。又、周辺では焚き木に丁度良い雑木が茂り、電気、ガスが普及する以前は燃料の供給を行える山として人々の生活も支えていました。

昭和に入りこの地の養蚕業は廃れ、桑畑は開墾されて食料を作る為、畑へと生まれ変わりました。又、電気の普及が進んできたのに合わせ、電柱用の杉が植えられ昭和50年頃まで富山県内外に電柱を供給する山として影ながら人々の生活を支えていました。

戦時中は食料不足を補う為、ジャガイモ、サツマイモ、長芋、カボチャ、胡瓜、茄子などを栽培し、家に残った者達で一生懸命野菜の世話をして戦時中の飢えを凌ぐことが出来た。

戦後、農地解放により土地区画を小作人が買い取り、舞谷の人々は「麻畑」の隅から隅まで耕して、さらに広く野菜を作り、この頃が一番「麻畑」の面積が広い時期で、戦後の貧しい時期を乗り切る事ができました。
やがて日本は高度経済成長期に入り、畑での野菜作りも減り始め、昭和50年を過ぎる頃には、電柱のコンクリート化が進み電柱杉の需要が無くなり、若者たちは街へと住む所を移し、「麻畑」へ足を運ぶ人が減り始めました。

平成25年頃には遂に「麻畑」に出入りするのは私一人となり、この頃よりイノシシの出没が目立ち始め、畑跡を荒らし始めました。
平成29年、耕作放棄地減少とイノシシ対策の為、にんにく栽培を行う事で解決出来ないかと「にんにくのまいのや」の立ち上げを決意する。

「それは、20坪の畑から始まった…」